富居石城は北朝鮮・咸鏡北道清津市 青岩区域 富居里にある。城は今から200年前の18世紀後半に既に基礎が露出している
状態だったので、現在は元の完全な姿を知ることは出来なくなった。
城壁は石で作られ、現在まで残っている城壁の長さは1,236mであり、城壁の幅は4m、高さは2mである。城門の礎石は4ヶ所
で発見されており、少なくとも4つの城門があるものとみられる。城壁は下に大きな石を敷き、その上に少し小さい石で
2〜3段、内側へ少しづつ作った後、再び真っ直ぐに上げて積んだ、高句麗の築城法で建てられている。
城内には城門を連結する道が縦横に走り、随所で住居跡とオンドル施設が発見された。また城内では高句麗、渤海の
瓦が数知れず出土し、様々な土器や祭器も出土した。城内から出た渤海の瓦は、日本海岸一帯の渤海遺跡である
城上里土城から出たものと同じで、祭器は青海土城から出たものと同じという。富居石城の築造方法や出土遺物により
この城も高句麗時代に建てられ、渤海の時まで使われた城であることが判る。
富居里一帯についての考古学的な調査・発掘が注目されている理由は、渤海の東京龍原府所在地をこの地域
とする一部の考古学的資料が明らかにされたと見るからである。もともと東京龍原府の位置については
琿春・八連城説がほぼ一般化された定説であったが、去る90年初から北朝鮮の学会から、これについての再検討
をするとともに富居里一帯が東京龍原府の可能性があるという主張を提起している。これによると、
東京龍原府−八連城説の不当性は次のとおりである。
第一に、遼史地理志には、東京龍原府が周囲20里に達する石城であったとしているが、八連城は土城であるばかりか、
周囲も7里しかない。
第二に、新唐書渤海伝では東京龍原府が南東に海に面していたとされているが、八連城は海から200里余り離れた地点にある。
第三に、三国史記に渤海の柵城府と新羅の泉井郡の間に39の駅があったとあるが、新羅の始発駅は従来の学者達が主張する
徳院でなく江陵である可能性が十分という点である。
第四に、渤海と日本の交渉記録を見ると、冬でも使臣が行き来したとあるが、龍原府の港であるモグウィ(現在のロシアの
ボシエット)は、冬に凍る港であり、使臣派遣は不可能であるという点である。
これに反して清津市 富居里一帯は、上記のいくつかの条件を同時に持つ地域であると主張する。
それは第一に、富居石城が渤海の城と確認された石城であったという点であり、第二に、そこは南東に海に面しているという
点であり、第三に、2つの不凍港を擁しており、第四に、朝鮮時代の駅制度で見るとここは江陵から39駅目の距離にある点である。
富居石城とその周辺の山城、風水体系、そして渤海古墳群の分布状況を総合的に分析してみても、北朝鮮学会のこうした主張
は一理があるように見える。しかしまだ一帯についての考古学的発掘が始まっていない状態で、即断することは出来ない。
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