渤海の歴史と遺跡
   
  渤海は皇帝国家
 

 

1. 渤海は年号を使用した。.

年号というものは皇帝だけが使える。中国の学者達が主張するように、渤海が唐王朝の管轄する少数民族地方政権であるなら、いかにして年号が 使えたのか?これは統一新羅、高麗、朝鮮が年号を使えなかった事実を考えれば、簡単にその位相が浮かび上がることだろう。

渤海の年号 (新唐書に基づき作成)

代数
王の諡号と名
在位年間
年号(新唐書)
1
高王 大祚栄
698∼719
2
武王 大武芸
719∼737
仁安
3
文王 大欽茂
737∼793
大興 宝暦
4
? 王 大元義
793. 3∼793. ?
5
成王 大華璵
793∼794
中興
6
康王 大嵩
794∼809
正歴
7
定王 大元瑜
809∼812
永徳
8
僖王 大言義
812∼817?
朱雀
9
簡王 大明忠
817?∼818
太始
10
宣王 大仁秀
818∼830
建興
11
? 王 大葬震
831∼857
咸和
12
? 王 大虔晃
857∼871
13
? 王 大玄錫
871∼894?
14
? 王 大
894?∼906?
15
定王 大
906?∼926

 

2. 渤海人が直接建てた碑文

 

- 皇帝だけが書ける「皇上」、 聖法大王という称号を書いている。

貞孝公主墓を見れば、「皇上におかれては照会を終えて大変悲しまれ、 就寝もなさらず歌舞も中止なさった。葬礼儀式は官に命じて準備するようにされた。(皇上 罷朝興慟 避寢馳懸 喪事之儀 命官備矣)」という文句がある。ここで「皇上」とは、自国の皇帝を指す言葉であるため、一般諸侯国家では使えない言葉である。 一方、碑文に「公主は我らの大興寶歴孝感 金輪聖法大王の4番目の姫である(公主者 我大興寶歴孝感金輪聖法大王之第四女也)」 として、文王の縁故である大興寶歴とともに「聖法大王」という再興の尊称を使っている。貞恵公主墓にも「公主者 我大興寶歴孝感 □□□法大王之第二女也」 という、同じ内容が記録されている。


社団法人 高句麗研究会