渤海の歴史と遺跡
   
  南北国時代とは何か?
   
チョン・ジンホン (慶熙大講師、高句麗研究会研究員)

海東盛国・渤海(698-926)は、広大な領土、複雑な建国過程と住民構成、そして突然の滅亡などで、いまだに人々の敬意と 疑問を集めている。歴史地理的にこれと関連する国毎に渤海を高句麗の継承国、靺鞨族の国家、もしくは唐の地方封建政権とみるなど、 異なった見方をしている。現在、韓国と北朝鮮では「渤海は高句麗の継承国であり、韓国史の一部である」と統一した見方をしている。 そのため、この時代を北では渤海、南ではいわゆる統一新羅が両立した「南北国時代」という。
渤海流民が大挙して流入した高麗時代に渤海を韓国史の一部と言及したが、南北国時代とは認識しなかった。朱子学の正統論に 立脚した朝鮮前期には、時折渤海記事を紹介したが、韓国史体系からは除外された。 朝鮮後期には散発的にこれを紹介したが、思想家・柳得恭(ユ・ドゥクコン 1748-1807)「渤海考」(1784)にて三国時代以後には高句麗の継承国 渤海と新羅が並立した南北国時代を初めて挙論した。 初めて整然とした論理で韓国史に偏在する南北国時代論を洪周(ホン・ソクジュ)、 丁若(チョン・ヤンヨン)、申采浩(シン・チェホ)を経て、日本統治時代の権悳奎(クォン・ドクキュ)、張道斌(チャン・ドビン)などへと続いた。 北朝鮮では三国時代以後、渤海と新羅の南北国時代を設定し、高麗により民族統一が達成されたという北朝鮮地域を中心とした 韓国史体系を立てた。韓国でも1970年以後に南北国時代論が台頭し、1980年以後には渤海研究が増幅し、この主張を立証する 様々な業績が続いた。 その結果、国史教科書でも「統一新羅と渤海の発展」という項目が設定され、最近に改編された教科書には南北国を挙論しつつ 統一新羅と渤海をほぼ対等に記述した。しかし南北国時代という時代区分を明確にしてはいない。中国では柳得恭の 主張を根拠のない狂人の愚痴だとし、渤海の高句麗継承関連事実を別に解釈し、南北国時代論を全面的に否定する。 甚だしくは、高句麗も唐の地方封建政権であるとする点を考慮すれば、中国学者達の主張は中華思想的発想であるとすることが出来る。
要するに南北国時代論は統一新羅の歴史的価値を低めるのではなく、放棄された渤海を歴史研究の場において光を当てることにあるということを 強調したい。 また高句麗・渤海・高麗が地縁と血縁そして歴史的に見て連携していることを確証しようとした柳得恭の 先覚的な研究方法論に注目しなければなるまい。

 

ユ・ドゥクコンの「渤海考」自書

 

高麗は渤海史を作らなかった。これにより、高麗が不振だったことが判る。昔、高氏が北方にいて高句麗、扶余氏が南西にいて百済、 金氏が南東にいて新羅をなした。これら三国が三国史を形成するわけだが、高麗がこれを作ったのは正しい。扶余氏が滅び、 高氏が滅びるに至り、金氏がその南側を抑え、大氏がその北側を所有、それが渤海である。 これを南北国というのだが、当然に南北国史がなければならないはずが、高句麗がその編纂をしなかったのは過ちである。

凡そ大氏はどんな人物なのか?それは高句麗人である。彼が所有する土地はどんな土地か?それは高句麗の地である。 それを、東側・西側、そして北側を切り開いて拡げただけである。凡そ金氏が滅び、大氏が滅びるに及び、王氏がこれを 統合し、立てたのが高麗である。その南の金氏の土地は全て所有したが、その北側の大氏の土地は完全には抑えられなかった。 ある部分は女真が獲得し、ある部分は契丹が獲得した。


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