長谷山・経ヶ峯

中井 正義 (1979年08月号)

  津市に住む者にとって、長谷山・経ヶ峯はことのほか親しい山である。標高 300mと 820m、どこといって特色のある山ではないが、親と子が無言でよこたわっているようなこの二つの山に朝夕接して生きてきたのである。
  昭和14年、創立60周年記念に発行された県立津中学校「校友会雑誌」に、

けさまではかすんで見えた長谷山が手に取る如し夕立の後  3年・北山 二三男
経ヶ峯赤き夕陽に照り映えて小鳥の群はいづち行くらむ   3年・谷田 和夫 

  こういう作品があるが、「けさまではかすんで見えた長谷山が、手にとるように見える、夕立の去ったあとに」というこの一首など、青田のむこうに近々と見える長谷山に対して心おどる思いで接した中学三年生の心情が生き生きと表現されているのである。
  経ヶ峯は、その頂上に、戦国の英雄織田信長が経巻を埋めたといわれる。もちろん真偽のほどは定かではないにしても、少年をして大志を抱かしめる山容である。
  津中学校校歌に、

煙はとざす 経ヶ峯
其名をとどむ 英雄の
努力の跡を 偲ぶべく
塚のあたりの 夕陽に
佇む時し 心おどる
佇む時し 心おどる

  こういう一節があって、津中学校に5年間学んだ私なども、心弱くなったとき、低く口誦して身をふるい立たせたものである。
  陸士時代、北軽井沢に一夏をすごしたことがあった。敝舎を出て、六里ヶ原で戦闘訓練に励んだわけだが、その六里ヶ原からみられる小浅間を帯同した浅間山の風景が、長谷山と経ヶ峯を思い出させ、それが家郷にある祖父母や父母、弟妹を思い出させた。日本が戦争にやぶれようとするころのことである。死に対して、今考えてみると不思議なほど平静であったけれども、ふるさとの山川を、そして父母を、弟妹を、もう一度見て死にたいと毎夜のように思ったものである。

経ヶ峯から ふいてくる
元気で朝々 ふむ土に
ゆたかなゆたかな 芽がのびる

  10年余りまえに作った津市の栗真小学校校歌の第1節に私はやはり経ヶ峯を詠んだ。


三重文学漫歩 1979年

出典:http://www.mie-kyobun.or.jp/Tayori/Bungaku/Bun021.htm