新羅人の稀少宝石:ロマンガラス

BACK][座談会案内][NEXT

数千年間、眠っていた古代世界の秘密が、新羅の巨大な古墳皇南大塚から出土された遺物から明らかになった。 1973年皇南大塚で発見された遺物の中から、意外にも彩りの透明な器などのかけらとみられるガラスの破片が、出てきた。 当時新羅のガラス工芸技術では製作できなかったガラスの遺物を通じて、古代文化の謎を探っていきたいと思う。

皇南大塚
韓国南部の慶州の大陵園にある皇南大塚は、高さ23m長さ120mの新羅古墳の中で最も大きい墓である。 この古墳は、その形がひさごを横にしたように見えることと、中から出土された遺物が、当時最高の身分を 象徴する華麗な黄金の装身具などであったことから、新羅の王または王族の夫婦墓と推測されている。 遺物の中で特に知友目を浴びたのは、ガラスでつくられた様々な容器で、中には壊れた容器の取っ手を金糸 をまいて直したものもあった。それは当時新羅社会においては、ガラス製品が金より稀少価値の高い宝石 のように、辰買われていたものと考えられる。当時金の細工技術に比べ、まだ製作事態できなかったガラス細工は、 他国から入った金よりも貴重な高級品であったのである。

ローマンガラス
新羅の13代目味鄒王(?〜284)の王陵(韓国慶州に位置)から直径1.5cmのガラス玉が嵌め込まれていた ネックレスが出土した。そのガラスの玉には四人の人の顔が描かれていたが、顔のバランス感覚や書かれた 特徴から、その人面は中央アジア人の顔であることがわかった。それでは何故新羅の王陵から出たガラス のネックレスに中央アジア人の顔が描かれているのだろうか。
ガラスは鉄器よりも古い歴史を持っている。5000年前メソポタミア(ペルシャのチグリス川・ユーフラテス川の流域一帯)で 初めてガラスが発明された時、人々は軽くて透明な物質にすぐ魅了されたという。そしてBC3、4世紀頃、 ローマの領域であったイスラエルなどの地中海沿岸で、それまでの原始的方法から、型を用いず拭き竿に巻き取った 溶けたガラス種を、宙空で吹いて成形する(宙吹き)という画期的方法で、多様な形のガラス製品を多量生産することができた。 今日世界で出土しているガラスの遺物は、その後イスラエルなどからヨーロッパ、アレクサンドリアなどローマ帝国内に 広く伝えられたものと考えられている。また皇南大塚で発見された金糸で取っ手を直した水瓶と同じ形をしているガラス の瓶が、今もイスラエルで作られており、その製作法などに違いがないことから、当時新羅にローマからのガラスの輸入 が実際行われていたと推定できる。

草原の道
紀元前6世紀から前3世紀にかけて、ユーラシア草原に遊牧国家を建設した騎馬民族スキタイ。 彼らはオリエント・ギリシャの金属文化の影響を受け、特に武器や車馬具を発達させ、鹿と木を崇拝する信仰による独特な美術を生み出した 民族である。長い間遊牧生活をしていたスキタイは、発達した農耕生活圏との交易の必要性を感じ始めた。彼らはユーラシアを中心に 東大陸に向かって交易品を求めての横断を続けた。また彼らは黄金を好む民族でもあり、新羅の黄金王冠は鹿の角と木を 形相化したスキタイ文化の影響を受けたものと言われている。BC2世紀頃、スキタイは歴史からその姿を消してしまうが、 新しい遊牧民族による東大陸との交易は続き、西ヨーロッパ文化であった人面模様(新羅の味鄒王陵で発見)のガラスの玉は ペルシャを渡って中央アジアに入り、そこからまた東のモンゴルの草原と満州を通って、最後には韓半島の新羅にまで伝わった のである。その交通路は機動力の優れた遊牧民族の草原の道(Steppe Route:シルクロードの一つ)であり、 ガラスは彼らの重要な交易品であった。草原の道、それはガラスの道でもあった。

海の道
韓国金海市では1990年から四次に渡っての発掘調査が行われ、その結果紀元前1世紀からの伽耶社会の生活がみられる遺物 が出土した。その中には金箔がついた鮮やかな彩りの装身具に使われていたガラスの玉も発見された。これは韓国扶余で 発見された紀元前2世紀頃の中国産鉛バリウムガラスとは違うソーダガラスのローマンガラスであった。またガラスと共に 馬具、農機具などの鉄器遺物も多量出土し、当時鉄貿易も活発化されていたことがわかった。2世紀から4世紀の間は鉄貿易が 盛んに行われていた時期で、中国歴史書である「三国志」の魏書には伽耶の鉄貿易の事実を記録している。 また金海地域ではそこに豊富に生産されていた鉄を海上を通じて輸出していたという。鉄を輸出していた海の道 (Marine Route:シルクロードの一つ)はガラスが輸入されていた道でもあった。 これは地中海を出たローマガラスが、インド、インドネシアなどに輸出され、海上シルクロードを通じて中国南部(広東省)と 韓半島まで届いたということをあらわすものであると言える。百済武寧王陵で出土した彩りのガラスの玉も、 このような海の道を通って入ったローマンガラスである。
ローマ帝国の一部であった地中海東沿岸を出発したガラスは、大陸を横断していた遊牧民により、草原の道シルクロードに 沿って韓半島に入ってきた、また他にそれよりも早い時期には、インドと東南アジアを通る海の道に沿って伝わっていたという。 このように古代社会では、海と陸地での世界各地との活発な交流が行われていたのである。今回皇南大塚のガラス遺物に 注目したのは、その遺物がそのような事実を直接語る生きた証拠であり、2000年前、韓半島が閉ざされた社会ではなく、 世界に向かって広く開いていた社会であったことを証明するからである。