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69.敵の心臓部へ入る(1)

呂ヨンジュン、虎の洞窟の地下アジトを利用し、敵の心臓部に入り、軍事情報を偵察


▲ 記者に小分隊活動について真剣に話す老抗日戦士・呂ヨンジュン

偵察兵に

“小部隊に編入された後、私は無線送信受信、撮影、制度技術、偵察技術などを学びました。 レシーバーを 使って四方から送られる電波の音響を選んで聞いて数字を使う練習もし、3本の指で打電器を握り、手首をカ タカタさせて発信練習もしたが、非常に面白かったです。”

6月 14日(2005年)、 記者が小部隊活動を取材しに延辺日報社老記者・韓テアクさんとともに、老抗日戦士・ 呂ヨンジュン氏を訪ねた時、まだ病気が完全には治っていなかったのに、彼はその時の状況をつい先日起こ ったことのように話してくれた。90歳の老抗日戦士の記憶力は素晴らしかった。当時の状況と戦友たちの名前、 日付までもはっきりと憶え、話を展開する姿は大変に生々しく悲壮感に溢れていた。

“血気盛んで記憶力の良い時だったので、何ヶ月かの訓練を経て、無線技術をほとんど掌握出来ました。 1分間 に 60字の速度で送受信することができました。 撮影技術も充分に掌握し、遠距離・短距離を問わず思いのまま に撮ることが出来ました。”

病気で身振りが少し不便に見えたが、偵察計器を扱う動作を手真似で表現する老人の顔はとても興奮していた。

遂に上級の命令を受け、 1941年 3月、呂ヨンジュンは朴チャンチュンと共に日本軍の軍事基地偵察を目的に中ソ 国境を越えた。今度の任務は老黒山一帯の日本軍軍事施設に対する偵察だった。

背丈より高い葦畑をかきわけながら国境線に到ると、中腹に雲が漂う海抜 1000mもある中国の山が前を阻んでいた。 二人の偵察兵は、葦畑に身を隠した後、望遠鏡で敵状を探知しながら越える道を捜した。 白雪に覆われた国境線に 闇の帳が垂れた。 二つの偵察兵は枯草で全身を偽装した後、誰にも分からないように綏芬河下流を渡った後、険しい 山に辿り付いた。2歩進めば1歩滑り落ちして、彼らは夜通し歩きやっと山を越えることができた。

既にあたりが明るくなり始めた。 ところが、これがどうした事か。 背後には敵の見張り台、山麓には敵の歩哨幕がある ではないか。 今、彼らは敵方の目前に立っているのだった。 既に日が明けたので、身動きも出来ない状況だった。二 人は仕方なく落ち葉を被って谷に隠れ、一日が過ぎるのを待つしかなかった。やがて日が暮れ、闇が山を覆った。 落ち 葉の中からひそかに出て来た二人は、足跡を消しながら老黒山に向けて進んだ。

老黒山は山奥の盆地だった。 望遠鏡で眺めると、部落は北の山麓にあり、停車場と日本軍兵営は南山麓にあった。 二人は日本軍営にまでぐっと近付き、待ち伏せた。 敵軍が朝の体操をすると思ったのだ。

遠くから夜明けを知らせる鶏の声が聞こえた。老黒山の朝が明け始めた。 果たして兵営から敵兵が続々と押し寄せて 来て、兵営場に並んで早期体操をしようとしてバタバタしていた。このように2日連続して敵の兵営の前で待ち伏せてい ながら、敵の動静を観察した。毎朝、体操に出る連中は 150人余りだった。 兵種は騎兵と歩兵だった。 警察署は部落 の中にあったが、巡査たちは日夜を問わず歩き回った。 二人の偵察兵は昼は山に待ち伏せ、老黒山一帯の地形図を 、そして夜には山を下りて鉄橋と新道の長さ、幅、高さ、橋脚の周囲と橋脚間の距離を測った。

4日の間、老黒山一帯をしっかりと偵察した二人は、偵察任務を無事に果して基地に帰り、老黒山の模型まで作った。

敵方の目先で

ひと月余り後の 4月、新しい任務が下された。東寧に行って、敵のトーチカの内部構造を偵察して来い というものだった。これはまさに敵の心臓部がどうなっているか調べて来いということと同じだった。 指揮官 は出発前に、東寧は日本人たちの主な軍事基地だから、今度の偵察はその意義が非常に大きいと仄めかし てくれた後、模型図を見せて主たる攻撃方向まで提示してくれた。

“トーチカの中に入って行くには、まず七つの分岐点の防御線をくぐらなければならない。 今まで東寧南北山に 日本人たちがトーチカを構築したことだけは知られているが、その内部構造を偵察して来た者は一人もいない。”

“私とチャンチュンは、ソ連紅軍が張鼓峰事件の時に略奪した日本軍の軍服に着替えました。 私は大尉肩章 を付けました。日本軍の戦闘帽までぎゅっと目深に被り、つるつるの皮袋に入れたピストルまで挿すと、結構 日本人のように変わってしまいますね。 やや似合わなかったのは、足跡を隠すために軍靴の代わりに地下足 袋を履いたことでしたが、脚はんまで履いてみるといかにもそれらしくなりました。”

東寧に到着した後、初めてぶつかった防御線は六階の高さと有刺鉄線だった。 朴チャンチュンが刺鉄柵を片手 でたくし上げると、呂ヨンジュンはその下をくぐり、朴チャンチュンの手から刺鉄柵を受け取った。二番目の防御線 は大きな落とし穴だった。 二人はどれだけ深いのか見積らずにどぶんどぶんと飛び降りた。 幅は 5mほどだっ た。 朴チャンチュンが向井側の土壁に身をぴったり付け、手で肩をとんとん打った。呂ヨンジュンは訓練場でやっ た通りに朴チャンチュンの肩を軽々と踏み越え、稲妻のように右に上がって腹を地にぴったり付けて伏せた後、両 腕を下げてチャンチュンを引き寄せた。 三番目の防御線は六層の有刺鉄線からなる障壁がゆらめいている防御 線だった。 下手をすると敵軍の神経を刺激しかねないものだった。 二人は左右の側杭中間へ這って行った。呂 ヨンジュンが先に片手で刺鉄柵をそっと持ち上げた。 鉄線障壁がガチャガチャ鳴らなかった。刺鉄柵を持ち上げた 下を朴チャンチュンがお腹を地に付けてそっと這って行った後、呂ヨンジュンが手で刺鉄柵を取った。 こうして三 番目の防御線を突破すると、今度は地にぎっしりと伸ばしておいた鉄索の罠が待っていた。 まさに一分の隙 も無い防衛線だった。 二人は足跡を擦るように進みながら罠を一つ一つ手探りしながら入って行った。 五番目 の防御線が鉄條網まで登ってみると、トーチカに通じる橋だった。

夜は怪しく周囲は慌しかった。中心のトーチカから打ち上げる信号弾が、時々夜空でピカピカと光った。 まだ 敵軍に発見されなかったようだった。 二人はへっぴり腰で橋に沿ってトーチカの中に入って行った。 一方でグー グーといびきをかく音がした。 彼らが起きれば反撃しなければならないから、呂ヨンジュンは短刀を抜いて万端の 準備をしながら朴チャンチュンはポケットから糸を取り出してトーチカの内径と規格、砲身口径、出入口の規格、天 井の厚さなどを測った後、隣のコンクリート側閣を踏査した後、呂ヨンジュンにそっと触れた。 用事をすべて済ませ たという合図だった。

北山トーチカの偵察を終えた二人は、今度は南山トーチカに向けて歩いた。すると前からつぶやく声が聞こえた。 敵兵だった。 生死の分かれ目と思った二人は、ピストルの引き金に指をかけて橋の一方の壁に張り付いた。 ひょっとしたら決死戦を繰り広げる目ところだった。 話声がますます近く聞こえた。 暗闇の中から眺めたら鉄 砲を担いだ二つの影がゆらゆらと近付いていた。 神経が刃のように張り詰めた。ところが彼らは二人を見つけ ることができず、横を通り過ぎていったのだ。 手を伸ばせば捕まる距離をそっと擦って通り過ぎて行ったのだっ た。どんなに緊張したか知れない。二人の額には冷汗がじっとりと滲んでいた。

二人は前の方法動揺に南山トーチカに入って行き、内部構造を偵察して国境線を無事に過ぎた。

1941年 6月 22日、ドイツ軍がソ連に侵攻すると、日本もソ連に侵攻する目的でソ満国境地帯に多くの軍隊を移動さ せた。 指揮部では急変する情勢に対処するため、各小分隊に新しい戦闘任務を下した。

“その時、私と朴チャンチュンは無電機を持って老黒山に入って行きました。 私たちは敵状を無線で報告しなければ ならなかったのです。 ところが本当に変な事にぶつかるようになりました。”

ある日の朝、彼らは日本軍 1000人余りが自動車から降りて兵営に入って行くところを目撃した。 つまり兵力が 100 0人余り増加されたという話だ。 ところがいくら山から望遠鏡に見下ろしても兵力が増加された様子が見られなかっ た。 1000人余り増えたのだから、元々の兵力と合わせれば 2000人余りにならなければならないのに依然として 1000人余りだけだった。 何かの妖怪の仕業か、敵軍の確かな数字を正確に掌握するため、二人は日本軍に変 装した後、夜中に敵の兵営に近付いた。 二人は停車場の方へ動く敵の長い隊列を目撃した。停車場に到着し た敵は、軍用の貨物車ワゴンに乗ったのだ。 日本軍を満載した軍用車はクムチャン方面へ出ていた。

(どうして急に夜に移動するのだろうか?)

二人の偵察兵は疑問を抱いたまま山に上がった。

翌朝だった。 ブルンブルンという軍用自動車のエンジン音に我に返った二人の偵察兵は、望遠鏡で敵の兵営を 見た。 一体どうした事か。 1000人余りの兵力を加えた軍用車がまた到着したのだった。 昨日の夕方同様、 1000人余りの敵軍は停車場に出て軍用貨物車に乗ったのだった。

“われらは生命の危険を冒して敵の兵営に近付き、敵の本営にまで入って行きながら、遂に敵の軍事秘密を 知ってしまいました。 それは実は敵軍の浅知恵でした。”

老抗日戦士・呂ヨンジュン氏は豪放に笑いながら、その時の情景を続けて話した。

“こんな調子で兵力が増加されれば、老黒山は日本人であふれてしまいますね。 しかし日本人兵力は少しも 増えなかったのです。 それは何日の間、毎朝、 1000人余りずつ入る日本の人々は、夕方に積んでいった兵 隊たちだったからです。敵軍は他人が全て寝る夕方に目をぬすんで兵力を積み、昼に堂々と引き入れたのは、 実は当地の民を欺くための芝居だったのです。 私たちはこんな情況を無線で幹部に報告した後、ずっと老黒 山にいて東寧から琿春県まで新たに作った軍用道路の幅をはかったり、飛行場と砲陣地に入って行って偵察 したりしながら活動を展開して行きました。”

虎の洞窟の地下アジトへ

ところが朴チャンチュンが急に寝こむようになり、偵察活動を続けることができなくなった。呂ヨンジュンは朴チャ ンチュンを野営訓練所に送り届けた後、一人で老黒山に戻り、偵察活動を続けた。 二人が一緒に通う時には お互いに励まし、言葉も交わすことができて寂しくはなかったが、一人になるとすごく孤独でした。 また、二人 なら敵方の目を感嘆にたぶらかすことができたが、一人になるとなかなか容易ではなかった。 一人で日本軍 の軍服を着て通おうとすると危ない時が多かった。

“虎の洞窟を地下アジトに使った話が本当に生々しかった” 洞窟の話が出ると、老抗日戦士・呂ヨンジュン氏 は深い感懐に耽っているようだった。

“その洞窟は本当に偶然に発見したのです。”

一日は敵軍の前を偵察して山を越えて来て、朝飯を食べに稜線の集まったところに枯枝を集めておいて火を 焚いていると、向こうの山でひそひそと話声が聞こえた。 すぐに見渡すと日本人の巡邏騎兵たちだった。 呂ヨンジュンは枯枝に着けた火を踏み消した後、急いで樹林の中に入って行った。 岩に座ってきょろきょろ 見回しながら偵察した敵軍は、何かの気配を見抜いたのか、呂ヨンジュンが火を着けていたところへ下りて行った。

(見つかったな!)

標的にされると思った呂ヨンジュンは一気に 10km余りを走った。 どこをどう走って来たのか分からない。 頭を持ち上げて眺めると、とても抜けられそうにない険しい山が前を阻んでいた。 深い谷間の下だったのだ。 先ほどまでですら一晩中偵察していたので腹が大変に減っていたが、今は空腹すら感じられない。ただ岩間に でも隠れなければならないという一念で、あちこちを探した。 ちょうど大きな岩岸に洞窟一つがあった。 のぞき 見たら奥の方に虎一匹が死んで骸骨になったものがあった。

(あ、虎の洞窟だな!) 瞬間、全身が縮み、頭が弾けそうになった。洞窟の中からすぐにでも “ガオーッ”と虎が 口をぱっくり開けながら飛び出して来そうに感じた。 ピストルを握った呂ヨンジュンは、弾丸を装填しておくの 方へ入って行った。 随分経っても何事もなかった。 今度は石一つを洞窟の中に投げ入れて耳を澄ませた。 やっぱり何の変化もなかった。 後を振り返ると追撃して来る敵もいなかった。 もうどうでもいい。 入って行って見よう。

呂ヨンジュンはツマ先立ちでそっと虎の洞窟の中に入って行き始めた。 2〜3m 入って行くと、中は 2層になっていた。 ザッと見て 30人は隠れることができる広さだった。 先ほどまでの殺気立った思いはフッと消え、何だか嬉しくなって来た。急に腹が “クルルッ”と 鳴った。 やっと腹が痛いほどの空腹感が押し寄せた。

枯枝を一抱えして上の階に上がった呂ヨンジュンは、飯を貪りながら 外を見詰めた。 もしかして外に出た虎が帰って来ないか、追撃して来た敵方 が攻め寄せて来ないかと思いながら、装弾したまま鉄砲をそばに置き、神経を尖らせた。

一日が経った。 虎も来ず、日本人たちも来なかった。 地形をよく見るとこの洞窟は老黒山から 20km余り離れていた。 ところが死んだ虎の骨がそのままあるところから見て、 現地の人たちもこのような洞窟があるということをまだ知らない様子だった。

“とにかく私はその後、その虎の洞窟を地下アジトとして利用しつつポタンゴル張君、 テピョンゴルの宋老人と連携しながら、日本人たちの軍事情報を収集し、本部 に報告したんです。 しかし誰も私が虎の洞窟に住んでいるとは分からなかった です。 偵察しに出る時にも夜を利用して帰って来ながら、うまく行動したからです ね。 電報を打つ時には外にアンテナを張って、コードを引き入れて来て無線機として利用し、 送信が終わった後にはすぐにアンテナを仕舞いました。”

こうして何ヶ月間、一人で偵察任務を果した呂ヨンジュンは冬になってようやく本部に帰った。
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