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11.龍井3.13反日運動

怒号の3万朝鮮族群衆、腐敗軍閥と対立して漢族反日群衆たちも朝鮮族と共に闘う


▲龍井市東南郊外の合成利 “3.13”反日義士陵全景

"3.13”反日義士陵

周囲が松で囲まれてた“3.13”反日義士陵は、遠くでもよく見える。白い碑石でよく整理された 墓の周囲を、美しく加工された石材で囲んでおり、見た目にも整然としていた。前列に並ぶ墓が9ヶ所 で、後列に並ぶ墓が4ヶ所だった。

記念石碑の正面には漢字で“3.13反日義士陵”と刻まれており、裏には“1919年3月13日に起こった 反日デモは、延辺地区の朝鮮族人民群衆が日本帝国主義の朝鮮侵略と中国侵略政策に抵抗して立 ち上がり、民族独立を勝ち取るために展開した群衆の革命闘争である。同月17日、龍井合成利共同墓 地で殉難烈士を弔う儀式を盛大に行い、日本帝国主義と地方当局の残虐な罪行に抗議する”という碑 文と、19人の烈士の名前が刻まれている。すなわち蔡昌鉉(忠烈隊指揮者)、孔徳洽(忠烈隊騎手)、朴 文鎬、金興植、鄭時益、玄鳳律、金承禄、金泰均、張学観、金鐘黙、許俊彦、金炳栄、朴尚鎭、崔益善、 玄相魯、李裕周、車正竜、元仁先、李均燮らである。

龍井“3.13”反日運動記念事業会会長で龍井抗日歴史研究会会長である崔根甲先生は、 御影石を磨いて作られた石碑をさすりながら口を開いた。

“1989年、韓国の東亜日報文化部部長の李ヤンチョル氏が<3.13>反日運動座談会に参加するために来 た時、この墓について聞いてから初めて分かるようになったが、下半期から捜し始めました。数十回に及 ぶ踏査を経て、合成利の方チョンファさん(当時81歳)から偶然に<万歳墓地>があったという話を聞きました 。独立運動の犠牲者たちを埋めた墓所と言う事でした。”

その老人を先に立たせて考証した結果、まさに崔根甲先生が苦労して捜した墓所だった。そして1990 年4月10日に確定し、5月19日に延辺各地の有志たちが集まって追慕会を開いた。

“当時、州党委の張進発書記が力強いことをおっしゃったのを忘れません。張進発書記は、 ‘抗日活動をして死亡した人は民族を問わず記念するべきであり、これは歴史唯物主義にかなう’と指示したんです。”

この場に安置された烈士たちは、総勢14人だったが、後に一人を親戚らが他所に移葬したため、 今は13人であり、5人はその頃に埋葬したと言う。 3月17日まで5日葬を行ったが、4000人余りの群 衆が葬式に参加したと言う。

“神々が通いながら、追慕しなさいとこちらに埋葬させたみたいです。後に追慕しに通う人が多かった が、日本が公然と干渉し、制止するため、この荒廃した所で寂しく過ごしたんです。胸の奥に埋葬した のではなく、柳の木の皮に巻いて埋葬したのです。”


▲1919年3月13日、龍井で開催された反日集会の模様(資料写真)

崔根甲先生は“3.13”反日運動は、もちろん朝鮮の“3.1”反日蜂起を支持声援する延辺人民の大規模 な群衆運動だったと指摘し、当時の情況を思い浮かべた。第1次世界大戦中の(民族自決主義)に刺激され て、1919年、孫秉熙ら33人が民族自決主義の思潮によって日本の鎖から脱しようと、その年3月1日パゴダ公 園から“独立宣言書”を発表し、示威運動を起こすや、全同胞が民族解放のために蜂起した。この運動で210ヶ 所の1500余りの団体が仕事を離れ、動員された人員は200万人余りだった。死亡者は7500人余り、負傷者は1 万6000人余りだった。

延辺でも“3.1”運動以前からウラジオストクとナコリースク等を中心にした沿海州と連繋して運動の準 備を共同で推進していた。そして金躍淵と鄭載冕を沿海州に派遣し、姜鳳羽を朝鮮に派遣した。沿海 州に派遣された金躍淵らは、そこで国民議会を設立しながら国内外の各地に派遣された民族運動家と 会合し、独立宣言書の作成とその宣布に関する合意をした。 2月18日と20日には延吉の朴東轅の家で 具春先、金永学、高平ら、延辺の主な反日志士33人が集まって秘密裏に会合、反日運動の戦略を決議し た。このように組織的な準備をする中、3月7日、朝鮮の“3.1”運動の知らせが延辺に入って来た。そして反 日運動家たちは再度協議を繰り返し、3月13日、龍井村の瑞甸大野にて“独立宣言書発表祝賀会”を行う 事に決定、大会長に金永学、副会長に「亨Gを選出して準備を急いだ。

“<3.13>運動は事実上1905年から始まったが、特に1909年、間島協約が締結された後、その気運が 高揚されたのです。各学校で反日教育と民族教育を進行させながら、人材を養成し、国民議会の独立 宣言書が出れば朝鮮、ロシア、延辺で一緒に蜂起しようと待っていたが、朝鮮で先に勃発したのです。 ここに延辺の学生たちは決起し、同盟休学をしながら闘いをリードし、待たずに争おうと立ち上がったの です。10余年間準備して来た火山が一度に爆発したわけですね。”延辺大学の朴昌c教授の言葉だ。

不必要な犠牲を減らすために、議事部では3月11日、日本総領事館に通知を出し、日本領事館や日 本人たちを害することなく我々だけでデモをするという内容を伝達し、12日には吉林省省長と北京外交 部に電報で消息を知らせた。また延吉道尹公署や孟富徳団でも省に“朝鮮族たちが反日集会を開こう としているが、どう対処しようか”という伺いを立てた。当時、吉林省省長は次のような態度を表した。 “優しい言葉で勧めてデモをさせないようにしなさい。”これ以外に延吉道尹公署や孟富徳部隊は、各 地に命令を下して“上部地の外で開かれる朝鮮族のすべての反日活動に対して、私たちは座視する。 上部地内に入って来ることを断固阻まなければならない”と言う方針を制定した。

3月13日の暴動

1919年3月13日、空が明るくなった。昨日までにしても変わった状況なかった空が、急に曇りながら 強い風が吹くようになった。大きな砂粒まで巻き上げる狂ったような悪天候は一体何を予告するのか。 それにもかかわらず朝から龍井で幾多の朝鮮族が集まって来始めた。白い上着、チマチョゴリを着た若い 男女たち、また老人たちと三尺の子ども達も力を合わせて雲のように集まって来た。

開山屯地方の民衆は子洞の正東学校の教員、学生たちと共に、3月12日の夜から握り飯をこしらえていて、 80余里の夜道を歩いて明東学校に到着、他の民衆は夜明けに出発して明東学校に到着した。彼らは明東学校 の学生たちと一緒にラッパと太鼓を鳴らしながら龍井に向けて出発した。東盛涌、朝陽村、茶条溝、銅仏寺、 老頭溝、明月溝、長仁江、頭道溝、依蘭溝、葦子溝、花甸子、石、延吉等の民衆も隊列を作って龍井に入って来た。

“まさにここが、1919年3月13日、反日集会が開かれた所です。”

崔根甲先生は、龍井市中心幼稚園の庭に立ち入り、片脇に立てられている記念石碑を示した。 大きな自然石である石碑正面には、漢字で“瑞甸大野”と刻まれている。石碑の後面には“1919年 3月13日、延辺人民3万名余がここに会集し、反日大会を行った。1995年4月15日、龍井3.13記念事 業会”という碑文が刻まれていた。

“あそこに天主教会堂があったのですが、教会堂の鐘の音が鳴ったら大会を行う事にしたんです。龍井 賓館から龍井中学校(大成中学校)まで横に道が通っているが、道の南側は治外法権内に入っている上 部地で治外法権内に入らない北は上部地の外であり、大会を上部地の外でする事にしたんです。”

3月13日の反日集会を破壊するため、日本総領事は延吉道尹に、“もし中国側で弾圧しなければ私たちは自分 の軍警を動員して弾圧する”と通牒を伝えた。これを知った張作霖は、日本の気に障ることが発生するのでは ないかと恐れ、吉林督軍と省長に、朝鮮人たちの独立運動に対して強硬な措置を取ることを指示した。延吉 道尹は孟富徳軍に指示して領事館を保護し、朝鮮族たちの行動を阻止するように伝えた。孟富徳は、13日 夜明けから龍井の町に歩哨を立てて巡邏隊を出動させ、家ごとににかけてあった太極旗を抜いてしまうと、 通行人を捜索し、龍井に入る通路を全て遮断した。しかし反日の洪水の流れを阻むことはできなかった。群 衆は銃刀の脅迫もものともせず、龍井に集まって来た。正午が近付くと、2万名余の群衆が集結した。その 中に明東学校、正東学校の教員と学生を中心に320名の“忠烈隊”が組織されていた。また、局子街道立 中学校の朝鮮族学生を中心に組職された自衛団員1000人余り、琿春地方から一日繰り上げて来た勇士たちもいた。

独立宣言祝賀会は元々正午12時に龍井天主教会堂の鐘の音を信号を始める事になっていたが、地方軍警たち が教会堂の大門を閉め、鐘を突くなと命じた。ところが当時15歳だった林民鎬同志が自分の目でデモ隊を見物し ようとして教会堂のてっぺんに上がっていた。林民鎬は鐘の横で見物していた。大会側で大会を宣布すると、 下にいた人が“そこの子、早くその鐘を鳴らしなさい”と叫び、急いで鐘を力強く打ったが、それが大会を知らせ る鐘の音になった。

鐘の音と共に四方から来た民衆たちが太極旗を手に持って大会場に集まって来たが、その光景はさながら激しい 嵐のようであった。広野で開かれる集会だったから、群衆たちは輪を作ってその中央に“正義人道”と“朝鮮独立 万歳”と書いた大きな五丈旗を立てた。局子街キリスト教牧師で大会会長である金永学が大会を司会した。 彼はまず“独立宣言布告文”と“公約3枚”を宣読した。

“独立宣言布告文”朗読が終わると“万歳”の声が天地を震わせた。続いて、劉礼均、「亨植、黄志英の 3人の独立主唱演説が続いた。ここに群衆たちはすすり泣きながら太極旗を振って、歓呼の声を挙げた。 天地を震撼させる万歳の声に、日本領事館で管理する間島普通学校の学生たちまでが飛び出して来て、 デモ行進に合流した。この頃、劉井市内の800戸の朝鮮族の家ごとに太極旗が掲揚され、砂を飛ばす 狂風暴雨の中で力強くはためいていた。

大会が終わると、群衆は日本総領事館に向けてデモ行進を始めた。鉄血光復団構成員が最前列に立った。 騎手の孔徳洽が“正義人道”という字が書かれた五丈旗を高く持ち上げ、ゆっくりと進んだ。その後を明東 中学校の楽隊が太鼓を打ってラッパを吹きながら意気軒昂に進んだ。群衆も自発的に隊伍を組んで後に続いた。

この時、孟富徳は日本総領事の指揮下に子分を従えてデモ隊が経過する上部地の境界に銃刀を携 えて待機していた。満ち潮のようにデモ隊に向けて射撃を加え、孔徳洽の旗を奪った。これに激怒した 孔徳洽は格闘のあげく、旗を奪い返し両手で支え、容赦なく降り注ぐ弾丸に鮮血が飛び散りながらもずっ と進んだ。激怒した群衆が軍警たちに向けて石を投げ、防戦を突破しようとした時、反動軍警たちは丸腰 の群衆目掛けて射撃を浴びせた。あっという間に数十人の群衆が倒れ、孔徳洽を含めた10人が即死、40 人余りが負傷した。済昌病院に護送されて治療を受ける途中、4人が死んで(5人はその後に死亡)、30人余りが逮捕された。

大会組織者たちは直ちにデモ大衆を解散させ、具春先ら5人の代表を延吉道尹公署に派遣し、中国軍隊が デモ群衆を射撃した事件について厳重に抗議、受難の家族たちに一切の損失を賠償することを強力に要求 した。その後3月17日、延辺各階層の人々は“義士会”を組織し、4000人が龍井に集まった。彼らは犠牲にな った14人の柩を担いで龍井東南郊外の合成利共同墓地へ行き、烈士達を埋葬し、“忠烈者提功之墓”と刻んだ碑石を建てた。

“3.13”反日運動に参加した漢族たち

“漢族たちも<3.13>反日運動に参加しました。”

延辺大学歴史学教授の朴昌c先生は、こう言いながら1919年3月13日の情景を説明した。 前列に立った鉄血隊には、銅山小学校(漢族学校)の朝鮮族学生と漢族学生たちが介入し、勇まし く進んだ。朝鮮族学生と漢族学生たちは肩を組んで叫びながら歩いたが、その勢いは堂々としていた。 軍警たちが阻むと漢族学生たちがかん高い中国語で糾弾した。

“君たちはどうして我が国を侵略した日本帝国主義者たちの味方をするのか!恥ずかしくもないのか。良心があるのか!”

“私たちと共に日本の奴らを討たなくてはならないだろう、銃口を仕舞いなさい!”

漢族学生たちの迫力ある叱責に、軍警たちは学生たちの胸に向けた鉄砲を下げながらひるんだ。

吉会鉄道敷設反対運動を指揮した関俊彦も、“3.13”反日運動を支持したが、彼は延吉の北山学校にいて 多くの人を保護したりした。

和龍県に暮す安シヨンは、朝鮮族だけではなく漢族の群衆たちとも団結し、彼らに反日思想を宣伝し、 彼らを反日運動へと決起させた。村の漢族、チョ・オクジェ、チョ・オクギ、チョ・オクブの三人兄弟は普段、 日本や警察たちにより被害にあい、敵対感情を持っており、正義感の強い地主だった。安シヨンの反日 思想を受け入れた後、彼の指揮の下、に積極参加した。

“3.13”の延長で各地で反日デモが連続して起きた。1919年3月16日、頭道溝で1000人の反日集会があり、 翌日17日に二道溝で4000人の集会があったが、チョ・オクジェは近所の漢族に働きかけ、この集会に参加 するようにし、おおよそ100人余りの漢族が反日集会に参加した。 3月20日、安シヨンらの主導の下、展開 された龍頭山500人反日集会にも、チョ・オクジェを筆頭にした漢族の民衆が朝鮮族民衆と共に積極参加した。

チョ・オクジェらは反日武装団体を支援して軍需物資を運送し、また反日武装集団のために主動的に 軍需物と軍資金を献納したりした。 1920年9月、国民会軍が二道溝一帯に移って来た時、漢族たちは とうもろこしの粉を200斤余り、大根2袋など、チョ・オクジェの家で育てた200斤余りの豚1匹、現金75元 を安シヨンが準備しておいた軍需物資と一緒に、チョ・オクジェが直接馬車に積んで国民会軍に輸送してくれた。

青山里戦闘の時にも、チョ・オクジェは馬車で負傷者を病院に運んだりした。1924年11月、国民会軍が北 満に撤収するために過冬の準備が必要だった時、チョ・オクジェらはまた兵站品を直接自分の馬車に積 んで二道溝に運送したが、運送した兵站品は胴着240着、足袋150足、現金250元などだった。国民会軍 の安武将軍が日本警察に惨殺された後、遺体を龍井銅山に安置した。幾多の反日青年たちが安武将軍 の墓所へ来て参拝するため、状況が厳しくなって墓所を移そうとする時にも、チョ・オクジェが出て直接馬車 で遺体を移動した。反日に協力した漢族たちは、チョ・オクジェ兄弟達だけのはずがなかった。幾多の漢族 も抗日に飛び出し、手柄を立てたのだ。

“3.13”運動は20世紀10年代、延辺地区で起こった最大の反日デモだ。“3.13”は朝鮮族たちの反日闘争 を力強く促しただけでなく、幾多の漢族たちを反日へと決起させた。日本帝国主義を打倒しようとすれば多くの 民族が共同戦線を成さなければならず、必ず武装して解決しなければならないという経験と教訓を得ることと なった。“3.13”反日運動は延辺の反日運動を反日武装闘争に転換させたのだ。
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